3回の法則
私は今まで勉強をちゃんとしたことがなかったのだ、と初めて気づいた。
中学の時は一度でなんでも覚えられた、と自負している。
高校生になって一度で覚えられなくなって焦った。それは脳の構造は変わるからだ、と後になって知って妙に納得した。
それでも高校生の時でも一夜漬けでどうにかテストは高得点を取れていた。
それから月日は過ぎ、勉強を再スタートすると、一度でなんか全然覚えられなくなっていた。
試行錯誤しながら、焦っていはいけない、基礎をガッチリ固めることが後々点数源になる、と言うことを痛い思いをして学んだ。
今やっているのは、参考書を3回読む、と言うこと。3回目の理解力は1回目と2回目に比べ物にならないくらい、優れている。価値観が変わったと言うほど脳によく刷り込まれる。
時間と労力が取れる限り、参考書を3回読む勉強方法を続けて行きたい。そして、大きな結果に結び付いた時、私は掛け替えのない財産を手に入れるだろう。とりあえず今は3回の法則で勉強を継続してやっていく。
勉強は楽しい。
自分の苦しさに向き合って
この世の中、みんな競争していると分かった。
親は子供に消費財として良い学歴、有名企業への就職、高収入を得ることを求めている。
世の中の価値観がそうなっているのだから、みんな親のペットとして子供は頑張っている。
親を喜ばせる為に、高学歴になるように頑張り、有名企業への就職できるように頑張り、高収入になるように頑張る。
子供はみんな親のペットだから、ペット同志は仲良くなれるわけがない。
今摂食障害や引きこもり、うつ病の人が増えているが、みんなが持ってる価値観に乗れなかった人も寿命まで生きられるので、新しい価値観をどう作るのか、ということが求められているのだと思った。
順調に人生が進んでしまった人は世の中にたくさんいるから、新しい価値観に切り替わるには時間がかかるだろう。だけど、少しずつ少しずつ既存の価値観に疑問を抱く人が出てきて新しい価値観を作ろうとしている人がいたり、心が痛む人が増えてきて、国も対策しきれなくなり財政の問題にまで発展したとき、ようやく新しい価値観というものが浸透し始めるのだろう、と思う。
「今の時代、大学卒業していないとかありえないよね」
「何のための受験だったの?」
と言う友人の言葉はいつまでも引っかかっていた。本人は悪気もなく、悪びれるそぶりもなく、口から息を吐くように自然とそう言う言葉を話した。これが既存の価値観である。
そして、その言葉の背景には、親のペットとして頑張ってきた自分と、親の期待に応えるように生きることが出来た既存の価値観に乗って何不自由なく生きることが出来ていていると言う人生があるのだと分かった。
一歩引いてその人たちを観察してみると、この人たちはアラサー後半になっているのに、今も親の財力に頼って生きている人である。私の周りの人に特殊な人が多いのだろうか。仕事は両親、或いは片親の経営しているお店を継いでいたり、手伝っている人たちが、上記に記した言葉を平気で言うのである。親とは関係のないところで生きている友人がその場にもいたが、その人はそんな言葉は発しなかった。自分たちの身の丈にあった生活をしていて、自分たちで考えて子育てしている人たちであった。しかし、その人たちも多かれ少なかれ、子供を自分の失敗の二の舞にはさせないように教育に力を入れて、第二のペットを作り出しているのだろう。
そう思うと、私はどうしても生きていく気が失われてしまうのである。ただ経済的に自立していればいい、と言う問題ではないのだ。経済的な自立はもちろん大事なのだが、既存の価値観に染まっている人たちの輪の中でどうやって苦しまずに人間関係を作って行けるのか、と言うところで人間力が試されるのだろうと思う。
みんな同じ価値観で生きているって恐ろしい。私は新しい価値観の人に出会いたい。新しい価値観を持っている人たちの輪の中で切磋琢磨しながら生きたいと切に願う。
失ってから気づくもの
私は自分の苦しさを表に出し過ぎてしまったことに気が付いた。
だから私にとって大事な人はもう戻ってこなくなってしまったのだ、と今更ながらに気が付いた。
去年一年間はずっと心に秘めていたことをやって、やっと自信を持てた。人生のスタート地点、気持ちを作る、情緒を作るスタート地点に立てた。
だけど一昨年は、まだ心からやりたいことをやれなかったので、自分に全くと言っていいほど自信が無くて、暗くて、頑張って私のこと励ましてくれた人がいたけれど、その人に対しても、苦しさをぶつけてしまった。あんなに私の気持ちを理解しようと行動してくれたことを今になってはありがたいと思うけれど、当時はなんで分かってくれないの!と自分のことしか考えられなくて、怒っていた。
心のストレスの1つを解消できた今、その人の話を聞きたいと思うし、その人と話をしたい、と思う。分かってもらえなくても、分かろうとする姿勢を見せてくれた、というのは尊いことなのかもしれない。薄っぺらい人間は私の話を理解しようとするどころか、共感しようとしてくれたけど、話のレベルが違う。薄っぺらい人は浅いところで理解しようとする。それは無意味に等しい。そして自分のわからない痛みを面白がった。だけど、深い理解力のある人はちゃんと相手の痛みを理解しようとする。真剣に理解しようとする。それは社会的な地位やそういう肩書とは関係なく、いや、その人も十分な学歴と肩書は持っていたが、人間性なのだ。私はその人間性を理解できなかった。苦し過ぎて、辛過ぎて、なんで分かってくれないの、なんで救ってくれないの、なんで応援してくれないの、としか思えなかった。
ところで私の人間性ってどうなんだろうね。
私は疲れた。
もう限界なのかもしれない。
果てしなく高い目標じゃ無いと満足できないのに、
果てしなく高い目標を目指すことが、今のままでは厳しいと思うと疲れた。
仲間がいないからだろう。一人で戦っているからだろう。身内は誰も私を見てくれない。地位や給料のことばかりで、私自身は何を持っているのか、を全然、全く見てくれない。
疲れた。私は疲れた。
死ぬことを考えるということは生きることを考えるということ
「明日死ぬとしたら今日をどうやって生きるか?」
と良く耳にする言葉だが、私はこの言葉を何度聞いても危機感を持てなかった。
「死ぬことを考えるということは生きることを考えること」
という言葉について考えると、危機感が持てた。
生きるも死ぬも同じ日々の中にあって、死ぬ前日になっても私は今のいつものように生活しているかもしれない。
「後悔しないように生きろ」
それは難しく、時間もかかり、いろんな犠牲をしなければ出来ない。
だからこそやる意味があり、後悔しないのだろうか。
だって、後悔しない為に医者になるって言って、明日医者になれるわけじゃない。
後悔しない為に海外に住むって言っても、明日海外に住めるわけじゃないし、海外で働けるようにする為には語学を習得しないといけないし。
「今目の前のことを全力でやる」
これしかないのかな、と思う。
きっとどんなことをしても、まだやれる、まだ良くなると思っているだろう。
だから今できることを全力でやる、これしか後悔しない人生を生きるには無いのかな、と思う。明日死んでしまうかもしれないから、色んな雑念を捨てて、今を全力で生きる。
出来ることをやる。
私はたくさんの人に「ありがとう」と言われて死にたい。
その為にもたくさんの人に貢献できる人になりたいと思う。
好きな人のことを吹っ切れた
ラインの名前を変えたら、
好きな人が見ていると思うと同時に、ラインを変える理由を詮索されているのがわかってものすごいストレスだった。
私は好きになる人を間違えた。
私が好き”だった”人は、人の情報を収集するのが好きな人だった。
私はただ勉強方法についての情報を得るためにラインの名前を変えたのだけど、
きっと彼は婚活サイトに登録するため、とか考えているのだろう、と分かる。
すごくいやらしいといういか、卑しい考えをしていると思う。
この人は私のことを好きでもなく、私のことを馬鹿にしていると分かった。
勝手に根拠のない噂してれば、私はあんたにももう興味もないし、関わらないので。
完全に吹っ切れて、未練など全くない。
私はこんな男と結ばれなくて本当に助かったと思う。
呆れるレベルになると嫌いという感情すら無くなる
嫌いな人がいた。
私に何もさせなかった。
他の人には私のなりたかったことをさせた。
その事実を知ったとき、嫌いという感情がなくなり、もう一生関わらない、関わりたくない、と思った。
呆れたんだ、と思った。
もうその人に興味はないし、もう二度と連絡することはないだろう。
また来年も来る
天気の良い日だった。
ポカポカとしていて春を満喫できるようだった。
フチベニベンケイを育てていて、毎年冬は小さな園芸用のハウスで越冬させている。
その園芸用ハウスの撤去をしているときに、来年もこれを私は出すのか、と思うと、穏やかに流れるような安心、幸せを感じた。
今までハウスをしまうときには来年も使えるようにビニール袋に入れるだけだったけれど、今日は雑巾で乾拭きして、サビや砂ほこりや汚れを落としてから、次の冬に気持ち良く取り出せるように、細々とした物はビニール袋へ入れて、後は箱に入れてしまった。
こんな風にハウスを丁寧にしまったのは初めてで、私はこの生活を続けられると思っているのだろう。
冬の間はたまに水をやるくらいで、世話をあまりしなかったが、今日取り出して見ると、日光不足でふにゃふにゃになっていたり、小さい芽は消えてしまっていたり、私の見ていないところでこの植物たちは生きる戦いをしていたのだ、と思った。
今日は思い切り日光に当てさせてあげて、培養土も足して、水やりもして、明日の朝、今日よりも元気になっている姿が見られたらいいな、と思っているけれど、もしかしたら、枯れているものもいるかもしれない。明日の朝を待ちたいと思う。
培養土をやるときに芽が取れてしまったものもあって、それは水耕栽培で根が1センチくらい出るまで育てることにした。植物の生命力は頼もしく、手入れをしていないのにぐんぐん大きくなる姿を見ると、本来の生き物のあるべき姿を見たような気がして、私は元気になる。この植物は日光が大好きということは経験からわかっているので、今日から日光をたくさん浴びさせてあげたいと思っている。風通しの良い、日光の当たる縁側のような場所が好きだと勝手に思っている。
次の冬がきたら今日しまったハウスに入れてあげて越冬させてあげよう。
おばあちゃんの贈り物は大事に守っていきます。